慧日寺

恵日寺と一体となり霊山・農業神として栄えた磐梯山

磐梯山と深い関係にある慧日寺(えにちじ)は、平安時代初め、法相宗の高僧・徳一(とくいつ) によって開山されました。現在は恵日寺(えにちじ)と名前を変え、磐梯山の南西部の福島県耶麻郡磐梯町にあります。古くは清水寺と呼ばれていたり、会津大寺、大寺薬師などと言う呼び名もありました。

大同元年(西暦806年)に起きた磐梯山の大噴火と、その少し後に慧日寺の開基があったことは、何らかの関連性があるのでは無いかと言われています。磐梯山は平安時代の初め、病脳山(やもうやま)と呼ばれていました。その時代から噴火活動が活発で、麓の村に甚大な被害をもたらす山を鎮めるために慧日寺が作られたと考えられるからです。

弘仁8年(西暦817年)、徳一は真言宗の空海に「真言宗未決文」を送るなどをして仏教教学の違いで対立し、また、弘仁8年(西暦817年)ごろから、天台宗の最澄と「三一権実論争」とよばれる宗教論争を4年間に渡り繰り広げるなど、真言宗及び天台宗の教えを批判し続けました。これらのことからも徳一は、都に対して相当影響力があったと思われます。

平安時代中期(西暦840年頃)の恵日寺は寺僧300人、僧兵数千人、子院3,800坊を数える巨刹となり隆盛を極めていたといわれます。

寿永元年(西暦1182年)に源平合戦に加わり、木曽義仲討伐の為に出兵し、戦いに敗れたことが原因で一時的に恵日寺は衰退するが、鎌倉から室町時代にかけて再び勢力を拡大していきます。

天正17(西暦1589年)伊達政宗の会津侵攻によって炎上し、ことごとく灰に帰した。その後再建されたものの、かつての隆盛を取り戻すことは出来ませんでした。

古くから恵日寺の守護神である磐梯明神と磐梯山をめぐる信仰習俗の一つにイナバツと称される習俗があります。旧暦の9月21日に行われ、黒衣・白衣をまとい、磐梯明神の依代である「大頭」か「小頭」と記された木製の鉾を持って、村々を回り、初穂を集めます。磐梯明神の本地仏は薬師如来であり、神仏習合の磐梯山信仰の姿を現しています。

何れにせよ、磐梯山は会津の人々により恵日寺と共に神仏一体となった山岳信仰の霊場あるいは農業神として尊崇され栄えてきました。恵日寺の北東に磐梯山、さらにその北に吾妻連峰が連なるなど、山岳霊場としての要件を備えていたからでしょう。

その後、恵日寺は徳一の創建以来、幾多の苦難を乗り越え千年を越す法灯を守ってきましたが、明治新政府の発した神仏分離令で起こった廃仏毀釈・史上最悪の宗教弾圧により、さしもの名刹も例外ではなく廃寺となってしまいました。

徳一は、磐梯山の東にある安達太良山の相応寺円東寺、筑波山の筑波山神社などの創建に関わった人物としても知られています。

参照;名山の日本史

大伴修験と磐梯吾妻修験

磐梯吾妻修験の入峰路
磐梯吾妻修験の入峰路

磐梯山は古来農業神の宿る神聖な山として尊崇された。同時に火山活動を背景に、災いをもたらす病悩山(やまうさん)と呼ばれ、魔性の住む山として畏れられてきた。磐梯山の修験道の始まりは恵日寺開基より古いと言われている。磐梯修験は大伴家が指導的立場となり牽引したことで大伴修験と呼ばれた。そして、鎌倉時代以降恵日寺が、磐梯修験の中心となってゆく。

磐梯山への入峯は恵日寺を拠点に東道と西道の二つのルートがあり、吾妻山まで続く長い道のりであった。東道は「慧日寺-経塚-源橋-更科不動滝-儀式山-地蔵平-磐梯山-妙見-吾妻神社遥拝所-小唐松沢-不動滝-吾妻神社-中吾妻山-東吾妻山-浄土平-一切経山」。

西道は「慧日寺-戒壇-小中野-二子山-古城ケ峯-厩嶽山-猫魔ヶ岳-経ヶ峯-磐梯山-雄子沢-不動滝-茅野-吾妻神社-中吾妻山-東吾妻山-浄土平-一切経山」。

※開基(かいき)-仏寺または一宗派を創立すること。また、その僧。開山。

※刹(さつ)-寺。寺院。「古刹・仏刹・名刹」などと使う。

※依代(よりしろ)-神霊が依り憑く(よりつく)対象物のこと。神霊の出現を示す媒体となるもの。樹木,石,御幣などが依代となることが多い。

※本地仏-この世の神々は,人間を救済し済度しようとする仏や菩薩がいろいろな姿であらわれた化身,すなわち垂迹(すいじやく)身であるとし,その根本である仏・菩薩のことを本地仏という。これは仏教が日本に渡来してから起こった思想で,仏も神も淵源をたずねるとみな同じである。

※入峯(にゅうぶ)-修験者が山中に入り修行すること。

磐梯山のルート

磐梯山
磐梯山八方台登山口コース
磐梯山-八方台登山口コース
磐梯山
磐梯山-裏磐梯登山口コース
磐梯山-裏磐梯登山口コース
磐梯山
磐梯山-翁島登山口コース
磐梯山-翁島登山口コース

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